九谷吸坂窯便り 第22回

硲伊之助美術館では、昨年度作品の展示替えを終え、本年度の常設展を開始しています。油彩画は入口から左側壁面、その中央に「南仏のバルコン」、陶器は正面ケースの中央に「夜の月見草大皿」、いずれも硲伊之助の代表作の一つです。
 今回、注目してほしいのは右側壁面です。そこに三点の多色刷木版画、「南仏の田舎娘」、「支那壺の花」、「ヴァンサンヌ公園」が展示されています。これまでも当美術館では、木版画を展示してきましたが、右側壁面に三点並べたのは初めてです。この中の「南仏の田舎娘」は昨年、当美術館友の会会員の会費によって購入したものです。
 左側には窓はありませんが、右側には窓があり、障子からの柔らかい光が木造建築の室内を照らしています。ただし、間接的ではあっても、紫外線は多色刷木版画にとって大敵なのです。木版画の色、そこで使われている植物性の顔料は紫外線にあたると、目に見えて退色します。昔の人は見終えると、すぐに箪笥にしまったそうです。今回展示している「支那壺の花」は保存状態が良好なので、その植物性顔料の繊細な、湿り気があるかのような色合いを味わうことができます。
 他に特徴的なことは、木版画のことを「刀画」と言った人がいたようですが、木版画は筆で描くのではなく、小刀で彫って線をつくります。印刷したものを見てもよく判りませんが、実物をよく見ると彫ってでき上った線であることが判ります。これを筆触とは言わないでしょうが、人間のなせる技として、動体として感じることができます。
 硲伊之助は最初の渡欧時( 一九二一年〜一九二九年)に、ヨーロッパで、日本伝統の多色刷木版画、つまり浮世絵版画と出会いました。日本から英国に来ていた職人にその技術を学び、版画制作を始めました。それは創作版画といわれる自画、自刻、自摺によるものでした。がその後、浮世絵版画を研究し、制作する中で、江戸時代の伝統木版画、浮世絵の分業、協力体制こそが、作品の質を低下させないやり方だと気づきました。
 現代日本の木版画制作の現場では、この分業、協力体制は受け継がれているのでしょうか。さらに春信、歌麿、広重、北斎たちの優れた作品を、自分の制作の原点とし、それを継承するという意識で取り組んでいるのでしょうか。棟方志功をはじめとする創作版画の作り手たちは、江戸時代の浮世絵版画を原点としているとは到底思えません。自身の制作の原点は何なのか。どこに立って、何を継承しようとしているのか。明確な自己認識なくしてどこに行こうとしたのでしょうか。

※本記事は夢レディオ編集室Vol.54(2019年7~9月号)に掲載されたものです

九谷吸坂窯便り 第21回

九谷焼制作に携わる者にとって、古九谷が焼かれた場所は特別な所です。
大聖寺川上流の山中温泉からさらに遡り、二つのダム、我谷ダムと九谷ダムを通り過ぎ、しばらく走ると、旧九谷村に着きます。そこは東側の谷を流れ下ってきた渓流が、大聖寺川と合流し、盆地のように拓けた地形をつくっており、九谷ダムができる以前には、人々が生業とともに住んでいた集落がありました。
東側の山の一部に、登り窯を築くのに最適な、なだらかな斜面があり、そこに古九谷の生地を焼く窯を作ったのです。それは何よりも付近の山から磁器の原料である陶石が採れたからです。
一九七〇年から考古学的な調査が行なわれ、13の部屋からなる連房式の登り窯跡、さらに多数の白磁片が発掘されました。
さらに近年、窯跡から見て大聖寺川の対岸に江戸時代初期の屋敷跡が発掘され、その中に火を用いた窯跡(径約1m)が発見されました。これは色絵付した窯の可能性が高いということが言われています。
右の屋敷跡は発掘後、そのままに近い状態で整備保存されていました。
ところが、昨年の春先に、私達の「聖地」に行きましたところ、とんでもないことになっていました。
窯跡の斜面にあった草木が全て無くなり、登り窯を模したらしいプラスチック製カマボコ形のイモ虫のようなものが出現していてビックリです。
私達現代日本人が木造建築を捨て、コンクリートやアルミサッシなどの新建材を「進歩」したものとして受け入れてきたとは言え、さすがにこれを見た人は異様な感じを持つと思います。周囲の自然環境にそぐわない、異物です。一緒に行った友人も「これは何ですか」と驚いていました。私は恥ずかしさとともに怒りが湧いてきました。
その後、地元有志にも怒りが広がり、現状復帰するための活動が始まりました。前々代市長からの計画だとしても、本年度の予算で進められており、これを見直すことを市当局に要望する署名活動が始まりました。
思えば前の大戦、原発もそうかもしれませんが、破滅するまで止められなかった。この国、私達日本人の体質があります。市長が、市当局が、資金を投入して、始まり進んでいる、これをストップする勇気があるかどうか。
そして結局は、一人一人の市民、人間が、どのような組織や人間関係の中にあろうと、自分自身の覚悟と責任をもって、生きているかどうか問われるのだと思います。

Vol.53 2018年4~6月
※本記事は夢レディオ編集室Vol.53に掲載されたものです

九谷吸坂窯便り 第20回

硲伊之助美術館の本年度常設展示中の油彩画作品では、「アンゴラのセーター」(一九四九年 80.3×65.1㎝)が、左側壁画の中央に展示されている。この絵のモデルは石塚富美子さん、当時イタリア人ピアティエンティーニ氏と結婚していたので、姓が変ってピアティエンティーニ富美子さん。彼女をモデルにした硲伊之助作の油彩画は「硲伊之助作品集」に掲載されているものだけでも六点ある。最も古いもので一九四〇年作の「I令嬢」、新しいものは前述の「アンゴラのセーター」、彼女は一九五二年に35才で亡くなっているので、「アンゴラのセーター」は死去する3年前の作品になる。
本年度美術館展示作品中に、富美子さんに関係したものが他に二点ある。一つは彼女自身が描いた「硲伊之助像」である。一九四一年作で、硲伊之助46才頃であろうか。夏の陽差しの中で、麦わら帽子を被った先生を大きな葉の植物の中に描いている。94.0×78.0㎝のキャンバスに、対象を大きく把え、迷いなく色が置かれて、気持ちよく仕上がっている。
他の一点は「P夫妻像」(一九四六年 70.0×60.0㎝)。富美子さんとP氏ことピアティエンティーニ氏の夫妻を硲伊之助が描いた作品。戦前、P氏はイタリアからの留学生として日本美術を学ぶために来日するも、同盟国人でありながら、戦争中は収容所に入れられ苦労したとのこと。先生は声楽家を志望していた富美子さんが、イタリー語を習得するためにP氏を紹介した。
硲伊之助はフランス人のロゾラン・アデリア・エルビラと一九二八年に結婚し、日本で暮したが、この国際結婚はうまくいかず別居することになり、間もなく戦争が始まり、アデリアさんはカソリック教徒でもあって、離婚はうまくいかず、籍はそのままになっていた。
その頃のことと、劇作家・小説家の岸田國士さんの娘で、のちに女優になった岸田今日子さんが記した文章がある。硲伊之助と岸田國士は親友であり、先生は岸田國士作の小説のさし絵、装丁などを手がけていた。
「硲さんとPさんが、お互いにどれほど大事に思っているのかは、子供の眼にもよくわかった。わたしは十歳前後だったろうか。子供というのは、本当に何でもわかるのだ」「わたしは硲さんとPさんの中に、大人そのもの、男と女というもの、何かわり切れないもの、けれど美しいもの、哀しいもの、たぶん愛というものを勝手に見つけ、ふくらませ、夢見ていた」(「妄想の森」文芸春秋一九七七年)
硲伊之助が亡くなって41年。現在、ここに登場の人物はこの世にいない。P氏は89才で、二〇〇五年に亡くなったが、その前年に硲伊之助美術館を尋ねている。

※本記事は夢レディオ編集室Vol.52に掲載されたものです