九谷吸坂窯便り 第14回

硲伊之助美術館では館内正面に大皿、右側面のケースには中皿や小皿、向付などが展示されている。大半は色絵付されたもので、来館者は皿立てに置かれた状態などで、ガラス越しに作品を見ることになる。人々はこれらが陶磁器(やきもの)ということで、食器として使うことを頭に浮かべるようだ。「大皿は食器として使うのでしょうか」という質問をよく受ける。
 硲伊之助が取り組んだ九谷焼は、古九谷を原点として意識するもので、古九谷はどこに特徴があるのかと言えば、その絵画性にある。色を付ける、色彩で表現する世界だと言える。その根本は色の調和を求めているところにある。したがって作品を見て、第一に色を感じてほしいということになる。
 器というよりも生活の中の装飾品ということになるが、やきものは油絵と違って形ある生地に絵付けするので、その絵付けされた生地(器)を手で触れて味わうことも、鑑賞の大きな要素に違いない。それが良いものであれば、ある種、不思議な感情に誘ってくれ、心豊かな気持ちになる。釉薬や器の形、厚さ薄さ加減の微妙な変化、肌ざわりを感じることも、やきものならではのことだ。
 やきもの、器ということなので、食器として使えるのだが、染付のものなどに比べて色絵のものは料理に合うかどうか難しいところがある。だとしても、それはその時々の料理に合うように、その人の感覚で使いこなせばよい。
 先日、一人の来館者があった。四十才台に思えた男性で、東京にお住まいとのこと。わざわざ尋ねてみえたようで熱心に見ていた。九谷焼が好きだとのことで、少し意外な感じがしたが、やおらスマホを取り出して、数日前にネットで手に入れたという画像を見せてくれた。それが何と硲伊之助作「ひなげしと矢車草皿」だった。
その情報を知らせてくれた人がいて、私もそれを前に見ていた。同作品は何点かあり、硲美術館ではすでに所蔵しているので、美術館での購入は考える必要はなかった。画像からではあるが、それは相当良い出来具合に見え、その後どうなったのか気になっていた。
 彼は手に入れたことを大変喜び、それが硲美術館への訪問になったとのこと。そして九谷焼が好きだと。意外に思えたのは、大方の人に反して食器ではなく飾皿として、見ていることで、この意外性は私にとって、嬉しいことだった

※本記事は夢レディオ編集室Vol.46(2017年7~9月号)に掲載されたものです

夢レディオVol.52 配布中

「夢レディオ編集室 Vol.52」に掲載中の「九谷吸坂窯便り 20」ではP氏ことピアティエンティーニ富美子さんについてです。

夢レディオ編集室は、福井県丹南地域を中心に県内全域で無料配布中のフリーペーパーです。 お近くにお住まいの方は是非ご覧ください。

九谷吸坂窯便り 第13回

「九谷吸坂窯」建設、その土地の売買と、登記は何かと見通しがついたが、工房兼住居の建設については、二進も三進もいかなくなり頭を抱えていた。そのような時、小松滞在の折に定宿にしていた旅館の主人に愚痴をこぼしたところ、紹介してくれたのが蓮井棟梁だった。蓮井さんは身の丈六尺の偉丈夫、濃い眉毛、大きな目がやさしい人だった。事情を話すと「よく分った、何とかする」と引き受けてくれた。吸坂にやってきた蓮井さんは首尾よく悪党職人どもを総入れ替えし、仕事にとりかかった。棟梁は先生の古九谷につながる九谷焼制作への熱い思いに共感し、損得なしで働いてくれ、建物は出来上がった。蓮井棟梁の出現が挫折の危機を救ってくれたと言えよう。

但し、問題はあった。一つは水のことで、吸坂町は平野部に突き出た丘というか高台にあるため、水道の出が悪かった。そのため地下水を汲み上げてみたり、水を溜めるタンクを高い所に作ったりした。今は水道の圧力が増し、水の問題は解決している。他の一つは経済問題。先生の経済環境は比較的恵まれていたとは言え、それほどの余裕はなく、建設資金は銀行からの借金ということになり、その返済に苦労することになった。私も先生と一緒に大皿を持ってある人を尋ねたことがあった。その時はうまくいったが、大阪まで思い皿を抱え、わざわざ行ったのだが断られたこともあった。一九七二年に大聖寺の清水喜久男さんが「九谷吸坂窯」直売店の暖簾をあげてくれたことで大いに助かり、経済問題も一応乗り切ることができた。

吸坂という場所は、地図上、加賀市の真ん中の位置しており、国道八号線のそばで、山代、山中温泉へも近いという好位置にある。そのせいか、まずは観光業者に目を付けられ、谷に水を溜めて釣堀にしませんかなどと、とんでもないことを言ってきた。ドライブインをやっていたこの業者は、それから間もなくして倒産し、そのあとにやって来たのが土建屋。山向うの隣接地で、連日、重機でぶっ壊した建材を、掘った穴の中に投げ込み、燃やしていた。このことは法律で禁止され、止んだと思ったら、山を削り、住宅会社と結託して宅地を作ろうとした。これもバブルがはじけてその住宅会社は破産した。ところが、地面を作るために谷を埋め、杜撰な工事をやったので、「九谷吸坂窯」のある両側の谷に生活廃水と雨水が溜り、増え続けていた。谷に半分近く土を入れて側溝を設置することで解決する他なく、止むを得ず私たちはその案を呑んだ。重機の騒音に悩まされる日が続いたが、曖昧だった境界を確定できた。しかしその後、景観破壊のゴルフ関係の施設ができ、問題は尽きることはない。

※本記事は夢レディオ編集室Vol.45(2017年4~6月号)に掲載されたものです