私が九谷吸坂窯に入門した頃、吸坂手や吸坂焼に使う吸坂釉はほぼ完成していた。吸坂町で採れる赤土と松灰、陶石や陶土などを調合する割合が決まっていたということだが、それには何度かの試験焼を要した。試験と言っても1250度位の還元炎で焼かなければいけないので簡単なことではない。磁器、九谷上絵付をする素地と同じ窯で焼くため、磁器の白釉が溶ける温度で吸坂釉も溶けるようにしなければならない。最初は溶け過ぎたり、あるいは溶けなかったりの試行錯誤。なかなか計算通りにはいかず、溶け過ぎるとテカテカの飴釉状態で品がなくなり、逆に溶けないとカチカチで銀化することもあった。
私が最初に見た吸坂手の硲伊之助作品は、「吸坂手夫婦鶴瓢形皿」だった。その吸坂釉の色合い、線描きした呉須の発色、瓢形皿の手ざわりなど、心に自然にしみ入ってくるものがあった。同時に、そう簡単にできるものではないという緊張感、ある種の重厚さも感じた。とにかくしっとりとした溶け具合、手作りの温かさに何とも言えない魅力があった。先生の作品をはじめとして油絵についてはどう見たらよいのか分らないところだったのだが、「吸坂手夫婦鶴瓢形皿」は理屈抜きで、何の説明も必要なしに良いなあと思った。これは日本人にとって、油絵とやきものがもっている歴史の差からきているのかもしれない。
吸坂手の昔のものは大半が白抜きしたもので、上絵付したものはきわめて僅少である。1967年の東京美術倶楽部青年会の古九谷端皿展図録に「吸坂手赤絵枯木尾長鳥図皿」が載っているが、赤絵と表記しているので、九谷の緑、黄、青、紫などは使っていないのかもしれない。カラーでないのが残念でよく把めないが、尾長鳥皿は有田産の吸坂手に比べて、図案的に描かれていない。これは私が最も見たいものの一つだが、未だその機会がない。
硲伊之助の吸坂手の作品の中には、前記の「夫婦鶴瓢形皿」のように白抜きで仕上げたものもあるが、上絵付した作品が相当数ある。これらは九谷焼の絵具を使っているので、広く言えば九谷焼に入れてもよいと思う。硲伊之助が切り拓いたと言える、吸坂釉上絵入の作品は、吸坂釉に九谷上絵具の五彩が見事に調和しており、先生の古九谷と吸坂手への思いが作品になったと言える。それらの中には径39cm前後の作品が三点ある。それぞれ小判草、あやめ、山帰来を描いたものだが、あとにも先にも硲伊之助にしかできない作品であろう。それらの作品は順次、硲伊之助美術館で公開展示している。
(夢レディオ編集室 Vol.37掲載)