九谷吸坂窯便り 第11回

 加賀市吸坂町に「九谷吸坂窯」をつくる前の話だが、硲伊之助が年数回、東京から小松市に通って長期滞在し、九谷焼制作をやっていた頃、加賀市に住んでいるという、六十才位の小柄な陶工が訪ねてきた。先生が持っていた古備前の茶入を見て、これはどこの焼き物かと質問し、これと同じようなものを自分は作ったことがある。それは吸坂という所で採れた粘土で焼いたものだと言った。
 先生は「吸坂手鷺皿」、「吸坂手兎皿」などを知っており、吸坂という場所が実在するとすれば、どこにあるのか関心をもっていた。大分前に、そこが吸坂かもしれないという瓦製造所に連れていかれたこともあった。
 今度は本当かもしれないと、その陶工の案内で出かけることになった。平野部から坂道に入り、登っていくと、街道筋らしい所に民家が並んでいた。奥まった所にあった一軒の民家の裏が竹藪になっており、その一画に、1m位の深さでやや広範囲に穴を掘った個所があった。粘土を採った跡に思えた。そこの土を持ち帰り試験焼きをしたことは前に述べたが、その粘土が良質のもので、この地が昔から吸坂と呼ばれていた所だと知り、「吸坂手鷺皿」の吸坂に間違いないと思った。二度目に行った時、吸坂の区長を訪ね、東京に住んでいる絵かきで、九谷焼、吸坂焼に関心をもっている者だなどという話をした。その時、粘土を採った場所のすぐ近くでブルトーザーが山を削っているのが見えた。
 その頃先生の古九谷、それを受け継ぐ九谷焼制作、そしてそのための窯場建設、もっと良い絵具、もっと良い生地を得て、一歩も二歩も作品を深めていきたいという思いは確かなものになっていた。先生はしばらく考えたが決断は速かった。
 三度目に行った時、先生は切り出した。宅地にしようとしている山の地面を譲ってほしいと。宅地にするより、この地が生んだ古九谷を大事にする九谷焼制作に手を貸してほしいと説得した。先生の熱意に動かされたのか、今すぐに土地が売れれば結構な話しだと思ったのか、「分かりました。できるだけ協力させてもらいます」ということになった。
 雑木林の里山は地権者が入り乱れて、登記された地面はなく、誰のものか特定できないような場所もあって、土地所有者との交渉は、「協力させてもらいます」と言った村のボスの働きがなければ進んでいかなかったかもしれない。先生は気宇壮大な人だから、手に入るだけの地面をもらいたいと言ったので、ボスは大いに張り切ったに違いない。

※本記事は夢レディオ編集室Vol.43(2016年10~12月号)に掲載されたものです

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今号の「夢レディオ編集室 Vol.51」に掲載中の「九谷吸坂窯便り 19」では、岡山県にある大原美術館との繋がりと、硲伊之助とマティスとの出会いについてです。

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九谷吸坂窯便り 第10回

 硲伊之助美術館を訪れる人には、お茶と吸坂飴を出すようにしている。吸坂飴は吸坂町の特産品で、私がこの地に来た四十余年前には三軒あったが、今は一軒だけが、この飴を製造している。風向きによって、時々その独特な匂いが製造元の方から漂ってくることもあった。その飴は米と麦芽のみを原料として、砂糖のような強い甘みではなく、柔かい、どこか懐かしい自然食品という趣がある。米をたくさん使うので米飴と言われたり、場所によっては朝鮮飴と呼ばれているように、この飴の製法は朝鮮の人によって伝えられたのだと思われる。
 大聖寺に前田家が入って明治まで十四代続いたのだが、それ以前の城主は、前田利長との戦で首をとられた山口玄蕃、そしてその前は溝口秀勝であった。二人とも豊臣秀吉の朝鮮出兵に関係しているので、朝鮮の人と接触する機会があったはずだ。大聖寺にいた期間は秀勝の十五年間に比べて、玄蕃は二年間と短かったが、茶湯や能楽をたしなんだという。どちらかの殿様がこの地に朝鮮の人を「招来」したのではと想像する。
 朝鮮半島から来た人達が吸坂の地に、高温焼成が可能な上質な粘土を発見し、陶器を焼き始め、住みついた。そしてその場所で吸坂飴(米飴)を作りだしたということであろう。
 日本の古い焼きもの、例えば六古窯などは、それぞれ味わい深いものを持っているが、自然釉はかかっていても、釉薬は施してなく、器として使うには問題もある。吸坂焼は肌理の細かい微妙な融け具合の釉薬に特徴がある。これは一つの進んだ技法と言える。
 古九谷開窯が明暦元年(1655)とすれば、吸坂焼の開始はおそらく半世紀余前のことになる。前田家は色絵磁器を作ることに重点を置いたので、吸坂焼はどうなったのか。吸坂焼の陶工たちがその経験と技術を買われて、古九谷に関わった可能性もある。その後、文献上に吸坂焼関係の記述があり、さらに1700年に止めたとある。
 吸坂焼については、正式な発掘調査が行なわれていないので、確かなことは分からない。江戸末期から明治にかけてのものと思われる厚手の陶片が残されているにすぎない。その後吸坂では焼きものは作られなかったと思われるが、硲伊之助が東京から移住して九谷吸坂窯を作り、古九谷継承の作品制作を主としながらも、吸坂手、吸坂焼の作品を手がけた。そして今は、私達が受け継いでいることになる。

※本記事は夢レディオ編集室Vol.42(2016年7~9月号)に掲載されたものです