加賀市吸坂町に「九谷吸坂窯」をつくる前の話だが、硲伊之助が年数回、東京から小松市に通って長期滞在し、九谷焼制作をやっていた頃、加賀市に住んでいるという、六十才位の小柄な陶工が訪ねてきた。先生が持っていた古備前の茶入を見て、これはどこの焼き物かと質問し、これと同じようなものを自分は作ったことがある。それは吸坂という所で採れた粘土で焼いたものだと言った。
先生は「吸坂手鷺皿」、「吸坂手兎皿」などを知っており、吸坂という場所が実在するとすれば、どこにあるのか関心をもっていた。大分前に、そこが吸坂かもしれないという瓦製造所に連れていかれたこともあった。
今度は本当かもしれないと、その陶工の案内で出かけることになった。平野部から坂道に入り、登っていくと、街道筋らしい所に民家が並んでいた。奥まった所にあった一軒の民家の裏が竹藪になっており、その一画に、1m位の深さでやや広範囲に穴を掘った個所があった。粘土を採った跡に思えた。そこの土を持ち帰り試験焼きをしたことは前に述べたが、その粘土が良質のもので、この地が昔から吸坂と呼ばれていた所だと知り、「吸坂手鷺皿」の吸坂に間違いないと思った。二度目に行った時、吸坂の区長を訪ね、東京に住んでいる絵かきで、九谷焼、吸坂焼に関心をもっている者だなどという話をした。その時、粘土を採った場所のすぐ近くでブルトーザーが山を削っているのが見えた。
その頃先生の古九谷、それを受け継ぐ九谷焼制作、そしてそのための窯場建設、もっと良い絵具、もっと良い生地を得て、一歩も二歩も作品を深めていきたいという思いは確かなものになっていた。先生はしばらく考えたが決断は速かった。
三度目に行った時、先生は切り出した。宅地にしようとしている山の地面を譲ってほしいと。宅地にするより、この地が生んだ古九谷を大事にする九谷焼制作に手を貸してほしいと説得した。先生の熱意に動かされたのか、今すぐに土地が売れれば結構な話しだと思ったのか、「分かりました。できるだけ協力させてもらいます」ということになった。
雑木林の里山は地権者が入り乱れて、登記された地面はなく、誰のものか特定できないような場所もあって、土地所有者との交渉は、「協力させてもらいます」と言った村のボスの働きがなければ進んでいかなかったかもしれない。先生は気宇壮大な人だから、手に入るだけの地面をもらいたいと言ったので、ボスは大いに張り切ったに違いない。