作家にとって、自分が作ったものを、真剣に見、評価してくれる人がいれば、これに勝る喜びはない。
ものを見る人達の代表が、美術評論家( 批評家)と言えるだろう。彼はものを見る専門家なのだ。
鑑賞者は「それを見て、あなた自身が感じればそれでよいのだ」ということで、何かしらのことを感じているかもしれない。その作品を見て心豊かになったり、刺激を与えられたり、発見があればそれに越したことはない。何も言うことなしだが、それでは美術評論家は必要ないであろう。
だが、人々はどこを見て、どのように感じればよいのかにおそらく精通していないのだ。
作品をより深く、ある意味作家の意思を越えて、理解しようとする人はほとんどいないかもしれないが、作家が生命を削って取り組んだ作品であるとすれば、ただ漠然と見るのではなく、もう少し真剣に見てほしいのだ。
「どこを見て、どう感じるのか。」そんなことは大きなお世話だと言われれば、それまでだが、評論家の役割は決して小さくない。と言っても、一人一人顔の異なる人がつくるその作品を相手にするのだから難しい仕事だ。
美術評論家(批評家)とは何かと問われれば、作品の良し悪しを判断する人だと言いたい。その名に価する人はどれだけいるのだろうか。美術史家や作品背景解説者はいても、作品そのものについて評価する人はいない。つまり作品を良し悪しで判断しようとしていない。その判断の基準、批評の方法をもっていないのが大半だろう。
硲伊之助は何人かの美術評論家と交流があったが、肝胆相照らすというような関係にはならなかったようだ。
この六月にかく言う美術評論家(批評家)の椹木野衣(さわらぎのい)さんが硲伊之助美術館を尋ねてきた。東京在住で、金沢での用事を済ませ、足を延ばしてくれた。初対面だったが、五年程前から、年賀状や美術館会報のやりとりをしていた。今回、三時間位対話し、何よりも美術館で硲伊之助作品を見ていただいた。
帰京後すぐに、硲伊之助美術館訪問を文章にし発表した。それはインターネットマガジン、「ARTiT」で検索し読むことができる。この文章を校正の段階で一読して大いに感心。美術館開館26年、それ以前の活動からは50年近くになる。この間、この文章ほど心に入り、動かされたものはなかった
※本記事は夢レディオ編集室Vol.55(2019年10~12月号)に掲載されたものです