「色絵横山」の横山英昭さんが、初めて九谷吸坂窯へやって来たのは十代後半だった。絵画教室の先生に伴われてのことだったが、横山青年に硲伊之助先生が「ロクロもデッサンだよ」と言ったそうだ。それ以来約五十年、横山さんとの関係は続いたことになる。何となく続いたということではなく、その関係は深まったと言うべきだろう。「色絵横山」開設につながっていくのだから。
この間、年に何回かやって来ては談笑し、食事を共にすることもあり、時には近在の珍しい風景、滝や渓谷を案内してもらったり、展覧会に行ったりもした。
しばらく音沙汰のない時期もあったが、あとで聞くと、芸術系の大学を出て、地元の九谷焼窯元で働いたのち、高校の美術講師をしていた。その頃、彼の祖父が住職だった願船寺という浄土真宗の寺の後継をどうするかということが問題になった。横山さんはすでに得度してその資格をもっていたのだが、自分の将来について大いに悩んでいたのだろう。悩みの相談らしい話をしたことはなかったが、自身で考え、結論を出し、着々と動いていったように思える。
願船寺は小高い丘の上にある小さな、山寺という趣で佇んでいる。横山さんは、本堂、鐘つき堂、山門、続々と修理していった。元々植物が好きで、庭の整備にも一段と力が入り、寺を訪れた人に自慢の枯山水を見せてくれる。
横山さんは、この半世紀近く、九谷吸坂窯に通って話をし、お茶を飲んでいただけではなく、その時、その場で目についたお皿や陶板など、気に入ったものがあれば購入していた。その作品が相当数たまったかもしれなかったが、本堂を修理する時に、それに続く休憩、談話室が九谷吸坂窯作品を展示できる空間となった。それがそのまま「色絵横山」になったのだ。
海部公子が自作品について「使うなんて考えていません。拒否していると言ってもいいでしょう」と言ったことがあるが、横山英昭さんはその真意を理解したのだろう。むろん使うもの、食器、茶器などを作っているのだが、色絵磁器の根幹は、絵画としての制作であり、その絵画の根本は色彩調和を求めるところにある。それらをそして、それにつながる生活態度を横山英昭さんと共有したから関係は続き深まったと思っている。