今回より月一回のペースで、夢レディオ編集室にて連載中の九谷吸坂窯便りを掲載してゆきます。
第2回は2018年1月に掲載予定です。
福井県から山を越えて、石川県に入ると間もなく、加賀市大聖寺の町に着く。JR大聖寺駅から2㎞足らずの所、加賀市吸坂町に硲伊之助美術館はある。
硲伊之助(1895年~1977年)は東京生まれ、東京育ち。若い時から油絵を描いてきたが、人生の半ばを過ぎて、九谷焼の元の古九谷と出会う。1951年頃から、油絵よりも九谷焼制作に重点を移していたが、より本格的に古九谷を継承する仕事をするために、1961年に吸坂町に窯を作った。その窯の名が「九谷吸坂窯」ということになる。硲伊之助美術館は九谷吸坂窯地内にあり、1994年に開館した。
吸坂町は海抜50~60m位の丘陵地にあり、国道8号線の拡張工事にともなって、隧道が失くなる以前は、白山山系につながっていた。その丘陵は大聖寺町の手前、三谷川と接する個所で終っている。この丘陵の大部分は雑木林と竹林でおおわれており、吸坂町を通る一本の道は旧道で、その両側に約40軒の民家が並ぶ。今は丘陵に沿って南側を国道305号線が通り、山中、山代温泉方面に向かっている。この道は明治の後半につくられたそうだ。
私は九谷吸坂窯の建設が始まって10年ほど経った1971年秋に入門した。すでに2棟の萱ぶき民家、工房兼住居はほぼ完成し、窯の諸設備もすでに整っていた。
8年近く暮らした東京からの移住だった。10月の下旬だったか天候が不安定になりつつあった時で、晴れていたと思っていても、にわかに曇り雨が降りだす。それを一日に何回か繰り返す。このことを「弁当忘れても傘忘れるな」と言うのだと聞かされた。天気の悪い所に来たものだ。何か不安な面持ちで気になる空模様だった。自分なりの覚悟をしてやってきたのだが、今から思えば、これから先どうなるのか。何をしようとしているのか。確かなものは見えていなかったせいかもしれない。
聞かされたと言えばこのあたりの方言、話し言葉、話し方がいささか乱暴な感じがした。東京に出た頃、山手線の中で人が話している東京弁を心地よく聞いていた。それに比べると、確かに都から離れるにしたがって言葉使いは乱暴になると言った丸岡出身の文学者中野重治氏の説に合点がいく。ここは越前との国境だった。
一日中晴れることはめったにないが、晴れた日、白山の方ではなく、海に沿って金沢方向を見ると、空と雲が広がっていた。東京では空や雲を観察したことがなかったかもしれないが、ここで見る空と雲は今まで見たことがない平野のそれであった。
(夢レディオ編集室 Vol.33掲載)