九谷吸坂窯便り 第12回

硲伊之助美術館を訪れた人は時々、「広い地面ですね」とつぶやく。山を削り、工房兼住居を建てるために台地が作られた。谷を必要以上に埋めることはなかったので平らな所は少ない。町中を通る道路や隣りの家から少し離れているのは、制作環境として一定の静けさを求めたからだ。
 吸坂町の人の協力もあって土地の取得は思ったより順調に進み、宅地造成に動いていたブルトーザーはそのまま「九谷吸坂窯」建設に使うようになった。
 大聖寺川上流旧九谷村にある古九谷窯跡を見るため、途中で立ち寄った村落、我谷村でのダム建設によって消滅する菅屋根民家との出会い。その村落では長い間火事がなかったので菅屋根民家が残っていた。先祖代々住み続けてきた家屋をダム建設のため壊され、その地を去らねばならないことに、集落の人々は納得いかない表情を浮べていた。何とかしてほしいとの思いが伝わってきた。これらの民家は江戸時代初期のもので古九谷の時代と重なる、これを移築、再生することに決めたことが、吸坂の土地購入へとつながっていった。
 「九谷吸坂窯」建設が始まったが、住居は東京に在り、東京での用事も多々あって、その進捗状況を逐一見てはおれない。それでも出来るだけ出かけることにしたが、ある時は土をやたらに削っていたので、それ以上はとらないようにと慌ててストップ、ストップと叫んだこともあった。
 いずれにしても町のボスに頼らざる得ない状況で、他には誰一人、知り合いのいない土地だった。そのような中で、そのボスはいろいろと相談にのってくれる親切な人だった。我谷村の古民家と解体移築し建設する大工、その屋根を菅でふく屋根屋、さらに石屋、壁谷など全て彼の手引きによって進行していった。ところが、その職人達がとんでもない連中だった。棟上げの時しか顔を見せないピンハネ大工、温泉旅館に泊り、毎晩好きなだけ酒を飲みやってくる屋根屋など、それでも請求書だけはきちんと持ってきた大工に、さすがの硲先生も「一本でもまっ直ぐに立っている柱があるのか」と怒鳴った。
 一方、土地の取得は進んだとは言え、不在地主がいたり、登記していない土地が大半だったので、登記簿を作らなければいけなかった。大聖寺の司法書士に入ってもらい、当方の地主との折衝は東京のKさんに頼んだ。Kさんがいろいろと調べてみると、私文書偽造してとんでもないことをやろうとしていたことが発覚。Kさんは村人を怒鳴りつけた。その後東京から何度も通ってもらい登記簿は出来上がった。

※本記事は夢レディオ編集室Vol.44(2017年1~3月号)に掲載されたものです