九谷吸坂窯便り 第21回

九谷焼制作に携わる者にとって、古九谷が焼かれた場所は特別な所です。
大聖寺川上流の山中温泉からさらに遡り、二つのダム、我谷ダムと九谷ダムを通り過ぎ、しばらく走ると、旧九谷村に着きます。そこは東側の谷を流れ下ってきた渓流が、大聖寺川と合流し、盆地のように拓けた地形をつくっており、九谷ダムができる以前には、人々が生業とともに住んでいた集落がありました。
東側の山の一部に、登り窯を築くのに最適な、なだらかな斜面があり、そこに古九谷の生地を焼く窯を作ったのです。それは何よりも付近の山から磁器の原料である陶石が採れたからです。
一九七〇年から考古学的な調査が行なわれ、13の部屋からなる連房式の登り窯跡、さらに多数の白磁片が発掘されました。
さらに近年、窯跡から見て大聖寺川の対岸に江戸時代初期の屋敷跡が発掘され、その中に火を用いた窯跡(径約1m)が発見されました。これは色絵付した窯の可能性が高いということが言われています。
右の屋敷跡は発掘後、そのままに近い状態で整備保存されていました。
ところが、昨年の春先に、私達の「聖地」に行きましたところ、とんでもないことになっていました。
窯跡の斜面にあった草木が全て無くなり、登り窯を模したらしいプラスチック製カマボコ形のイモ虫のようなものが出現していてビックリです。
私達現代日本人が木造建築を捨て、コンクリートやアルミサッシなどの新建材を「進歩」したものとして受け入れてきたとは言え、さすがにこれを見た人は異様な感じを持つと思います。周囲の自然環境にそぐわない、異物です。一緒に行った友人も「これは何ですか」と驚いていました。私は恥ずかしさとともに怒りが湧いてきました。
その後、地元有志にも怒りが広がり、現状復帰するための活動が始まりました。前々代市長からの計画だとしても、本年度の予算で進められており、これを見直すことを市当局に要望する署名活動が始まりました。
思えば前の大戦、原発もそうかもしれませんが、破滅するまで止められなかった。この国、私達日本人の体質があります。市長が、市当局が、資金を投入して、始まり進んでいる、これをストップする勇気があるかどうか。
そして結局は、一人一人の市民、人間が、どのような組織や人間関係の中にあろうと、自分自身の覚悟と責任をもって、生きているかどうか問われるのだと思います。

Vol.53 2018年4~6月
※本記事は夢レディオ編集室Vol.53に掲載されたものです