今号の「夢レディオ編集室 Vol.51」に掲載中の「九谷吸坂窯便り 19」では、岡山県にある大原美術館との繋がりと、硲伊之助とマティスとの出会いについてです。
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石川県九谷美術館では平成30年10月6日(土)から同年12月2日(日)にかけて、石川県九谷美術館では特別展「東北・北海道に渡った九谷焼」が開催中です。
本特別展では、個人蔵により公の場に出るのはおそらく初となる一品も展示予定です。是非来館してご鑑賞ください。
硲伊之助美術館を訪れる人には、お茶と吸坂飴を出すようにしている。吸坂飴は吸坂町の特産品で、私がこの地に来た四十余年前には三軒あったが、今は一軒だけが、この飴を製造している。風向きによって、時々その独特な匂いが製造元の方から漂ってくることもあった。その飴は米と麦芽のみを原料として、砂糖のような強い甘みではなく、柔かい、どこか懐かしい自然食品という趣がある。米をたくさん使うので米飴と言われたり、場所によっては朝鮮飴と呼ばれているように、この飴の製法は朝鮮の人によって伝えられたのだと思われる。
大聖寺に前田家が入って明治まで十四代続いたのだが、それ以前の城主は、前田利長との戦で首をとられた山口玄蕃、そしてその前は溝口秀勝であった。二人とも豊臣秀吉の朝鮮出兵に関係しているので、朝鮮の人と接触する機会があったはずだ。大聖寺にいた期間は秀勝の十五年間に比べて、玄蕃は二年間と短かったが、茶湯や能楽をたしなんだという。どちらかの殿様がこの地に朝鮮の人を「招来」したのではと想像する。
朝鮮半島から来た人達が吸坂の地に、高温焼成が可能な上質な粘土を発見し、陶器を焼き始め、住みついた。そしてその場所で吸坂飴(米飴)を作りだしたということであろう。
日本の古い焼きもの、例えば六古窯などは、それぞれ味わい深いものを持っているが、自然釉はかかっていても、釉薬は施してなく、器として使うには問題もある。吸坂焼は肌理の細かい微妙な融け具合の釉薬に特徴がある。これは一つの進んだ技法と言える。
古九谷開窯が明暦元年(1655)とすれば、吸坂焼の開始はおそらく半世紀余前のことになる。前田家は色絵磁器を作ることに重点を置いたので、吸坂焼はどうなったのか。吸坂焼の陶工たちがその経験と技術を買われて、古九谷に関わった可能性もある。その後、文献上に吸坂焼関係の記述があり、さらに1700年に止めたとある。
吸坂焼については、正式な発掘調査が行なわれていないので、確かなことは分からない。江戸末期から明治にかけてのものと思われる厚手の陶片が残されているにすぎない。その後吸坂では焼きものは作られなかったと思われるが、硲伊之助が東京から移住して九谷吸坂窯を作り、古九谷継承の作品制作を主としながらも、吸坂手、吸坂焼の作品を手がけた。そして今は、私達が受け継いでいることになる。