1971年秋に九谷吸坂窯に入門した私だが、この地を初めて訪れたのは、その年の正月明けだった。生れ故郷の九州で正月を過し、いつもは東海道線をまっ直ぐに東京まで行くところを、北陸線に乗り換え、すでに薄暗くなっていた大聖寺駅に降りた。長靴が必要かと思っていたが、それほどの積雪はなく、駅からタクシーに乗り、九谷吸坂窯に到着。工房兼住居である合掌造りの萱ぶき家屋の前に立って、見上げたその屋根の堂々とした黒い姿が、今も瞼に残っている。
硲伊之助は古九谷との出会いがあって、晩年、制作を油絵から磁器上絵付へと転換した。
東京から小松方面に通って、九谷焼の絵付をしていたが、さらに本格的に取り組むために加賀市吸坂町に窯をつくった。古九谷を強く意識し、それを継承するということであったが、古九谷への思いとは別に吸坂手というやきものについても関心をもっていた。
古九谷と吸坂手とはどこかで繋がっているのかもしれない。手元にある1999年のMOA美術館の「古九谷珠玉の小品」展の図録、2004年の出光美術館の「古九谷」展の図録、どちらの図録にも古九谷とともに吸坂手の作品が掲載されている。
硲伊之助が初めて吸坂手を見たのは何時だったのかは分らないが、吸坂手鷺皿、兎や千鳥の皿などについての所見が残っている。そしてそれらの陶片を有田の山小屋窯、百間窯や稗古場窯で採取してもいる。一方、吸坂町やその周辺から吸坂手の陶片は出ていない。江戸初期の窯跡も特定されていない。しかし、吸坂手といわれるもの全てが有田産と言えるかどうか。
大聖寺川上流の旧九谷村の古九谷窯跡から吸坂釉の陶片らしきものが出たと聞いている。
さらに吸坂手に上絵付した珍品が現存するが、これは有田というより古九谷風な絵付になっている。
硲伊之助は吸坂手への関心から、吸坂という場所や窯跡などを探していたが、1961年になって吸坂という所が実際にあることを知り、初めてその地を訪れた。そして陶土を持ち帰り、その土で成形し試験焼をした。その粘土は1250度位でも焼ける耐火性の強いものであり、磁器と同じ窯で焼くことが可能だと分った。吸坂の粘土は陶石ではなく土なので吸坂焼とし、磁器が素地の場合は吸坂手として区別することになるが、どちらの場合も錆釉(鉄釉)をかけて焼くことになる。吸坂手はこの釉薬に特徴があり、その主な原料は吸坂産の赤土である。吸坂の赤土は質が良く、精選して焼くと真赤になり、市販の紅柄と変らない。硲伊之助が吸坂町に窯を築いたのは、吸坂手というやきものの存在が大きかった。
(夢レディオ編集室 Vol.35掲載)
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九谷吸坂窯便り 第2回
「パオロ君」(油彩80.3×65.1cm)は、1952年(昭和27) 硲伊之助が57才の時の作品です。椅子に腰かけているパオロ君は4才。モデルは動いてはいけない。それは大人でもかなりきついことですが、幼い児であればなおさらです。
セザンヌはモデルに「リンゴは動かない、動くな!」と怒ったそうです。伊之助先生は叱るわけにはいかない。母親のフミコさんがそばにいて、パオロ君に話しかけたりしてくれていました。先生は人物であれ、風景・静物であれ、現場でそのものを見て、感じることを大切にしていましたので、パオロ君を座らせないで、筆を進めることはなかったと思います。完成するまでにどれ位の時間がかかったのでしょうか。画く方も大変だったかもしれませんが、パオロ君もよく辛抱し、そしてフミコさんの協力もあって、一つの作品が仕上ったと言えます。
ところが、母親のフミコさんはこの年、白血病を患い35歳で急死するのです。パオロ君のまな差しがどこか哀しそうなのは、母との別れを予感していたのかもしれません。伊之助先生は「東大病院に殺された」と嘆き悲しんだそうです。
パオロ君の記憶に残っているのは病院のベッドに横たわった痩せ細ったお母さん。そして一緒に食べたアイスクリームの甘露な味。幼な児を残し旅立ったフミコさん。母を失くしたパオロ君の胸中も計り知れません。
元気なお母さんを知らないパオロ君にその姿を蘇らせてくれたのは、硲伊之助作「燈下」でした。その複製を額に入れ、身近に置いていたといいます。スタンドの光の下で読書する母、若くて生き生きとしたその眼が真っ直ぐに自分を見つめ、「パオロ、よく勉強するんだよ」と語りかけてきたそうです。
6月27日、硲伊之助美術館で、ローマ大学教授になった66才のパオロ君が約10年ぶりに母(「燈下」)と再会しました。美術館では開館20周年記念と、パオロ君が来館することもあって、フミコさんを描いた硲伊之助作「アンゴラのセーター」(油彩)、さらに先生の弟子でもあったフミコさん作の「硲伊之助像」(油彩)など、パオロ君に関連した5作品を展示しています。
最後になりましたが、パオロ君の父親ミケランジェロ・ピアチェンティーニ氏は2005年、イタリアから硲伊之助美術館を訪れ、硲伊之助作「P夫妻像」(油彩)を寄贈し帰国、その四ヶ月後に89才で亡くなりました。今回、パオロ君が「P夫妻像」を見るのは生れて初めてのことで、新婚時代(1946年作)の両親の姿にしばし見入っていました。
(夢レディオ編集室 Vol.34掲載)
九谷吸坂窯便り 第1回
今回より月一回のペースで、夢レディオ編集室にて連載中の九谷吸坂窯便りを掲載してゆきます。
第2回は2018年1月に掲載予定です。
福井県から山を越えて、石川県に入ると間もなく、加賀市大聖寺の町に着く。JR大聖寺駅から2㎞足らずの所、加賀市吸坂町に硲伊之助美術館はある。
硲伊之助(1895年~1977年)は東京生まれ、東京育ち。若い時から油絵を描いてきたが、人生の半ばを過ぎて、九谷焼の元の古九谷と出会う。1951年頃から、油絵よりも九谷焼制作に重点を移していたが、より本格的に古九谷を継承する仕事をするために、1961年に吸坂町に窯を作った。その窯の名が「九谷吸坂窯」ということになる。硲伊之助美術館は九谷吸坂窯地内にあり、1994年に開館した。
吸坂町は海抜50~60m位の丘陵地にあり、国道8号線の拡張工事にともなって、隧道が失くなる以前は、白山山系につながっていた。その丘陵は大聖寺町の手前、三谷川と接する個所で終っている。この丘陵の大部分は雑木林と竹林でおおわれており、吸坂町を通る一本の道は旧道で、その両側に約40軒の民家が並ぶ。今は丘陵に沿って南側を国道305号線が通り、山中、山代温泉方面に向かっている。この道は明治の後半につくられたそうだ。
私は九谷吸坂窯の建設が始まって10年ほど経った1971年秋に入門した。すでに2棟の萱ぶき民家、工房兼住居はほぼ完成し、窯の諸設備もすでに整っていた。
8年近く暮らした東京からの移住だった。10月の下旬だったか天候が不安定になりつつあった時で、晴れていたと思っていても、にわかに曇り雨が降りだす。それを一日に何回か繰り返す。このことを「弁当忘れても傘忘れるな」と言うのだと聞かされた。天気の悪い所に来たものだ。何か不安な面持ちで気になる空模様だった。自分なりの覚悟をしてやってきたのだが、今から思えば、これから先どうなるのか。何をしようとしているのか。確かなものは見えていなかったせいかもしれない。
聞かされたと言えばこのあたりの方言、話し言葉、話し方がいささか乱暴な感じがした。東京に出た頃、山手線の中で人が話している東京弁を心地よく聞いていた。それに比べると、確かに都から離れるにしたがって言葉使いは乱暴になると言った丸岡出身の文学者中野重治氏の説に合点がいく。ここは越前との国境だった。
一日中晴れることはめったにないが、晴れた日、白山の方ではなく、海に沿って金沢方向を見ると、空と雲が広がっていた。東京では空や雲を観察したことがなかったかもしれないが、ここで見る空と雲は今まで見たことがない平野のそれであった。
(夢レディオ編集室 Vol.33掲載)