「夢レディオ編集室 Vol.56」に掲載中の「九谷吸坂窯便り 24」ではA・K像と、先生より教わった作品の楽しみ方について書き綴っています。
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先日、硲伊之助美術館に岡山県倉敷市の大原美術館の学芸員が来館された。大原美術館と硲伊之助とは、一九五一年に同美術館で開催されたマティス展でつながっている。マティス展は、東京国立博物館から大阪市立美術館、そして大原美術館と巡回した。この展覧会は硲伊之助がマティスと交渉し実現したもので、戦後日本最初の大規模な海外展であった。
硲伊之助とマティスとの出会いは全くの偶然で、それはニースからパリ行の列車、同じコンパートメントに乗り合わせたことによる。話が弾み、「制作したら見てあげるから来たまえ」ということになった。マティスの教え方は親切で的確。ハザマ、ハザマと呼んでくれたと言う。硲伊之助はマティスを生涯の師として、亡くなるまで、マティスのことはマティス先生と敬愛を込めて語っていた。
九谷吸坂窯工房の先生の寝室には、マティスの複製が三点かかっていた。「窓辺のかぼちゃ」(油彩画)、これは実物大の25号。ルイ何世かの額縁に入っていて、本物のようによく出来ていた。他の一つはモスクワのプーシキン美術館蔵の「ピンクの画室」(油彩画)、私は実物を見ていないが、「赤い室内」と並ぶ、マティスの最高傑作。残りの一点はマティスサイン入りの、縦長の切り絵で人物と植物をモチーフにしたものだった。その寝室で先生は亡くなったが、亡くなるまでマティスと共にいた。
話しを大原美術館に戻すと、同美術館にマティス作の「マティス嬢の肖像」(72.5×52.5㎝)という油絵がある。これは大原美術館の作品収集にあたった児島虎次郎が一九二〇年に、マティス本人から直接手に入れたもので(一九三〇年に同美術館は開館)、私はこれまで二度、この作品を見た。顔の皮膚、眼、ピンクの花、帽子、毛皮のコート。全て生きている。これほどイキイキとした油彩画はあるだろうか。全体の色彩の調和はもちろんだが、あのマティエールがどうして可能になったのか、もう一度よく見たいと思っている。 硲伊之助作「室内」(一九二八年80.3×60.6㎝)は本年度の常設展示作品であるが、この作品は硲伊之助がフランスで住んでいた部屋の内部をモチーフにしている。この絵の中に自作の「村の入口」、「エスタック風景」、さらに画面左上にコロー作「ナポリ風景」が描かれている。「ナポリ風景」は先生がパリの画廊で手に入れ、日本に持ち帰り、後年、大原美術館蔵となったが、一九六三年に盗難にあって、今は行方不明になっている。
※本記事は夢レディオ編集室Vol.52に掲載されたものです
「色絵横山」の横山英昭さんが、初めて九谷吸坂窯へやって来たのは十代後半だった。絵画教室の先生に伴われてのことだったが、横山青年に硲伊之助先生が「ロクロもデッサンだよ」と言ったそうだ。それ以来約五十年、横山さんとの関係は続いたことになる。何となく続いたということではなく、その関係は深まったと言うべきだろう。「色絵横山」開設につながっていくのだから。
この間、年に何回かやって来ては談笑し、食事を共にすることもあり、時には近在の珍しい風景、滝や渓谷を案内してもらったり、展覧会に行ったりもした。
しばらく音沙汰のない時期もあったが、あとで聞くと、芸術系の大学を出て、地元の九谷焼窯元で働いたのち、高校の美術講師をしていた。その頃、彼の祖父が住職だった願船寺という浄土真宗の寺の後継をどうするかということが問題になった。横山さんはすでに得度してその資格をもっていたのだが、自分の将来について大いに悩んでいたのだろう。悩みの相談らしい話をしたことはなかったが、自身で考え、結論を出し、着々と動いていったように思える。
願船寺は小高い丘の上にある小さな、山寺という趣で佇んでいる。横山さんは、本堂、鐘つき堂、山門、続々と修理していった。元々植物が好きで、庭の整備にも一段と力が入り、寺を訪れた人に自慢の枯山水を見せてくれる。
横山さんは、この半世紀近く、九谷吸坂窯に通って話をし、お茶を飲んでいただけではなく、その時、その場で目についたお皿や陶板など、気に入ったものがあれば購入していた。その作品が相当数たまったかもしれなかったが、本堂を修理する時に、それに続く休憩、談話室が九谷吸坂窯作品を展示できる空間となった。それがそのまま「色絵横山」になったのだ。
海部公子が自作品について「使うなんて考えていません。拒否していると言ってもいいでしょう」と言ったことがあるが、横山英昭さんはその真意を理解したのだろう。むろん使うもの、食器、茶器などを作っているのだが、色絵磁器の根幹は、絵画としての制作であり、その絵画の根本は色彩調和を求めるところにある。それらをそして、それにつながる生活態度を横山英昭さんと共有したから関係は続き深まったと思っている。