硲伊之助美術館を訪れる人には、お茶と吸坂飴を出すようにしている。吸坂飴は吸坂町の特産品で、私がこの地に来た四十余年前には三軒あったが、今は一軒だけが、この飴を製造している。風向きによって、時々その独特な匂いが製造元の方から漂ってくることもあった。その飴は米と麦芽のみを原料として、砂糖のような強い甘みではなく、柔かい、どこか懐かしい自然食品という趣がある。米をたくさん使うので米飴と言われたり、場所によっては朝鮮飴と呼ばれているように、この飴の製法は朝鮮の人によって伝えられたのだと思われる。
大聖寺に前田家が入って明治まで十四代続いたのだが、それ以前の城主は、前田利長との戦で首をとられた山口玄蕃、そしてその前は溝口秀勝であった。二人とも豊臣秀吉の朝鮮出兵に関係しているので、朝鮮の人と接触する機会があったはずだ。大聖寺にいた期間は秀勝の十五年間に比べて、玄蕃は二年間と短かったが、茶湯や能楽をたしなんだという。どちらかの殿様がこの地に朝鮮の人を「招来」したのではと想像する。
朝鮮半島から来た人達が吸坂の地に、高温焼成が可能な上質な粘土を発見し、陶器を焼き始め、住みついた。そしてその場所で吸坂飴(米飴)を作りだしたということであろう。
日本の古い焼きもの、例えば六古窯などは、それぞれ味わい深いものを持っているが、自然釉はかかっていても、釉薬は施してなく、器として使うには問題もある。吸坂焼は肌理の細かい微妙な融け具合の釉薬に特徴がある。これは一つの進んだ技法と言える。
古九谷開窯が明暦元年(1655)とすれば、吸坂焼の開始はおそらく半世紀余前のことになる。前田家は色絵磁器を作ることに重点を置いたので、吸坂焼はどうなったのか。吸坂焼の陶工たちがその経験と技術を買われて、古九谷に関わった可能性もある。その後、文献上に吸坂焼関係の記述があり、さらに1700年に止めたとある。
吸坂焼については、正式な発掘調査が行なわれていないので、確かなことは分からない。江戸末期から明治にかけてのものと思われる厚手の陶片が残されているにすぎない。その後吸坂では焼きものは作られなかったと思われるが、硲伊之助が東京から移住して九谷吸坂窯を作り、古九谷継承の作品制作を主としながらも、吸坂手、吸坂焼の作品を手がけた。そして今は、私達が受け継いでいることになる。
「九谷吸坂窯便り」カテゴリーアーカイブ
九谷吸坂窯便り 第9回
硲伊之助美術館では、本年度(※)の常設展を開催中(4月20日迄)で、正面ケースの中央には「九谷本窯上絵夏樹立大皿」(1973年作径45・0㎝)が展示されている。この作品の下絵は前年、丹後天橋立に三ヶ月間滞在した折に描かれたもので、その木炭による素描画は、格好のモチーフ、天候、精神的なことを含む自身の体調、それらに恵まれて順調に描き進んだようだ。描き終えたこの素描画のために、めったにないことだが、本金の額縁が注文された。それは今回の常設展でも「夏樹立大皿」の間近の壁面に展示されている。下絵と大皿を比較して見ると、木炭のデッサンを忠実に大皿に呉須で再現していることが分る。 写生したものを雁皮紙に写し、さらに大皿に描く。この場合は素焼大皿に呉須で線描きしたものに、白釉をかけて、還元炎約1250度で焼くことになる。硲伊之助作品は呉須で線描きしたものが多く、当初から古渡りの唐呉須を用いていたが、手持ちのものが無くなったので、廃鉱になった銅山の鉱石から新たに呉須を作った。この新しい呉須は、上質のものは多くはとれなかったが、落ち着いた柔らかい鮮やかな紺青になった。見事な色合いになったこの「夏樹立大皿」が本窯から出た時、先生は喜んだ。さらにこの大皿に着色して色絵窯に入れると、これも思った以上の仕上りになった。言葉に出さなくとも、先生の体中から満足感、充実感が伝わってきた。快心の作だった。
先生が亡くなる半年前(1977)に刊行された「硲伊之助作品集」の陶芸の最初のページには、躊躇なく「夏樹立大皿」を載せた。さらに亡くなった年の秋、一水会陶芸展で遺作を10点近く並べたが、その中央に「夏樹立大皿」を置いた。会場に顔を出した先生の弟子が「どうしてあの作品が真ん中にあるのか」と質問してきた。それは「夏樹立大皿」が最もすぐれているからですと。「夏樹立大皿」は文句なしの自信に満ちていた。
しかし、その後思うことは、この作品は古九谷の特長である色彩の強さを出すのではなく、染付の味わいを生かし淡彩風に仕上げており、古九谷を継承するということでは、代表作とは言えないかもしれないということだった。ただしそのことは、古九谷の五彩、その強さという枠をあらかじめ設定して制作するのではなく、どのような作品にするのかは、その時対面したモチーフを見て感じたことによる、先生の作画態度は自身が感じたことにあくまでも素直であるということだった。
九谷吸坂窯便り 第8回
現在(※)、加賀市の石川県九谷焼美術館では「青手古九谷の世界展」が開かれている(平成28年1月31日まで)。これはJR東京駅構内の東京ステーションギャラリーで8月1日〜9月6日に行なわれていたもので、私は「九谷吸坂窯展」で上京中に同展を見たが、もう一度まとめて古九谷を見ておきたいという思いで会場に足を運んだ。それは本誌前稿で触れた「古九谷についての理解」ということが念頭にあったせいでもある。
さて、この展覧会での白眉は「古九谷青手白山波潯文山水図皿」(33・2×6・0㎝)であろう。私はこの作品が何故に諏訪地方にあるのか疑問に思っていたが、同展カタログを読み、その間の事情が少しばかり分かった。それによるとこの作品は徳川家康の六男松平忠輝が所持していたもので、忠輝は大阪夏の陣の時、家康から勘当され、家康死後も兄である二代将軍秀忠から改易を命じられ、伊勢国、飛騨国を経て信濃国諏訪に幽閉され、この地に92歳で没したが、忠輝の菩堤寺となった寺院「貞松院」に生前所有していたものが寄進され、その中に同作品があった。
さらに、忠輝存命の時代は古九谷窯稼動の時期と重なり、また忠輝は加賀藩三代前田利常(古九谷を創始した大聖寺初代藩主前田利治の父)と親交があったとのことだ。
同作品の図柄は中央にのびやかな線で山が描かれており、この山を白山と見ることもできる。天空は波頭の線描きが施されているのがユニークであるが、これが白山だとすればこの皿が加賀の地で作られたという根拠の一つになり、古九谷伊万里論争に問題、あるいは話題を投げかけることになる。
そしてこの作品が素晴しいのは、全体の中で、付けられている緑、黄、紫、それぞれの色が透明だということだ。それらの色が整理され、関係し合い、ある種の論理性をもって調和しているということだろう。
理解力ということで言えば、それは良いものを良いものと感じる力ということになろうか。おそらく瞬時に理屈ではなく、その作品全体の色を感じ、さらに描線を含む筆触がどの程度に対象の生命感を把えているのかを見る力と言えよう。
私は、硲伊之助のそばに居て、師が作品を前にしている時に、作品のどこを見、どう感じているのかを、それとなく注意深く観察
し、その見方、感じ方を自分自身の身に付けようとしてきた。
良いものとは何か。一言でいえば、色が調和しているかどうかである。古九谷を含む色彩絵画について他にどのような価値規準があるのか、あるならば聞いてみたい。