九谷吸坂窯便り 第4回

 現在、硲伊之助美術館で展示されている油絵の中で、最も古い作品は「水車小屋(南仏風景)」(1925 年頃 113.6×146.2cm)であり、最も新しい作品は「潮の岬夕照」(1970 年80.3×65.1cm)である。
 前者は、最初の渡欧時(1921 ~ 1929)の作で、水力を利用してオリーブ油を絞っていた建物を描いている。硲伊之助は南仏のサンシャマ村などで自炊し制作していたようで、絞りたての新鮮なオリーブ油の美味なことをよく語っていた。「水車小屋」は絵具層がかなり厚くなっており、仕上げるのに相当な時間がかかったことが分る。パレットの上で付けるべき色を作り、それを塗る。さらに絵の具が乾くとその上から塗っていく。時には絵具を削ってそうしたかもしれない。
 後者は硲伊之助最後の油絵作品で、南紀串本海岸に写生旅行した時に制作したものである。すでに九谷焼制作を始めており、油絵は写生旅行に出た時のみしか描いてはいなかった。その後は伊豆半島や奥入瀬など写生に出かけたが、油絵の道具を持っていくことはなかった。「潮の岬夕照」の方は比較的短い時間で描き上げたのだろうか。下塗りがなされていたとしても、絵具層は厚くなく、付けるべき色を一回で塗り切り、画面を造っていったように思える。
 両作品の間には45 年位の時間が流れており、キャンバスに塗られた絵具の厚みに顕著な違いがある。塗り重ね、絵具層が厚くなることによって、油絵の特徴である堅牢さと力強さを示すことができる。他方、薄塗りは直載で新鮮な筆触を味わうことができる。それぞれに良さがあり、その時のモチーフやその他の条件、あるいは画家が描く対象をどういうふうに感じたのかによって、描き方は決まっていくのだろう。したがって簡単に結論付けられないが、硲伊之助の作品は厚塗りから薄塗りに変わっていったことは見てとれる。 両者の作風は違っていても、共通することは、写実の精神であり方法である。写実とは見て感じることであり、ごまかさないで素直に表現するということであろう。実際にその場所に立ち、見て感じたことに従って描くということである。
 「写真からは描かないのですか」とよく聞かれるが、写真から描くことはない。写真から実感は把み難いので、アトリエで風景を描くことはない。「潮の岬夕照」の淡い夕焼の空に浮ぶ紫の雲は、その時、その場所で見て感じない限り描けないものだ。
(夢レディオ編集室 Vol.36掲載)

九谷吸坂窯便り 第3回

 1971年秋に九谷吸坂窯に入門した私だが、この地を初めて訪れたのは、その年の正月明けだった。生れ故郷の九州で正月を過し、いつもは東海道線をまっ直ぐに東京まで行くところを、北陸線に乗り換え、すでに薄暗くなっていた大聖寺駅に降りた。長靴が必要かと思っていたが、それほどの積雪はなく、駅からタクシーに乗り、九谷吸坂窯に到着。工房兼住居である合掌造りの萱ぶき家屋の前に立って、見上げたその屋根の堂々とした黒い姿が、今も瞼に残っている。
 硲伊之助は古九谷との出会いがあって、晩年、制作を油絵から磁器上絵付へと転換した。
東京から小松方面に通って、九谷焼の絵付をしていたが、さらに本格的に取り組むために加賀市吸坂町に窯をつくった。古九谷を強く意識し、それを継承するということであったが、古九谷への思いとは別に吸坂手というやきものについても関心をもっていた。
 古九谷と吸坂手とはどこかで繋がっているのかもしれない。手元にある1999年のMOA美術館の「古九谷珠玉の小品」展の図録、2004年の出光美術館の「古九谷」展の図録、どちらの図録にも古九谷とともに吸坂手の作品が掲載されている。
 硲伊之助が初めて吸坂手を見たのは何時だったのかは分らないが、吸坂手鷺皿、兎や千鳥の皿などについての所見が残っている。そしてそれらの陶片を有田の山小屋窯、百間窯や稗古場窯で採取してもいる。一方、吸坂町やその周辺から吸坂手の陶片は出ていない。江戸初期の窯跡も特定されていない。しかし、吸坂手といわれるもの全てが有田産と言えるかどうか。
大聖寺川上流の旧九谷村の古九谷窯跡から吸坂釉の陶片らしきものが出たと聞いている。
さらに吸坂手に上絵付した珍品が現存するが、これは有田というより古九谷風な絵付になっている。
 硲伊之助は吸坂手への関心から、吸坂という場所や窯跡などを探していたが、1961年になって吸坂という所が実際にあることを知り、初めてその地を訪れた。そして陶土を持ち帰り、その土で成形し試験焼をした。その粘土は1250度位でも焼ける耐火性の強いものであり、磁器と同じ窯で焼くことが可能だと分った。吸坂の粘土は陶石ではなく土なので吸坂焼とし、磁器が素地の場合は吸坂手として区別することになるが、どちらの場合も錆釉(鉄釉)をかけて焼くことになる。吸坂手はこの釉薬に特徴があり、その主な原料は吸坂産の赤土である。吸坂の赤土は質が良く、精選して焼くと真赤になり、市販の紅柄と変らない。硲伊之助が吸坂町に窯を築いたのは、吸坂手というやきものの存在が大きかった。
(夢レディオ編集室 Vol.35掲載)

九谷吸坂窯便り 第2回

 「パオロ君」(油彩80.3×65.1cm)は、1952年(昭和27) 硲伊之助が57才の時の作品です。椅子に腰かけているパオロ君は4才。モデルは動いてはいけない。それは大人でもかなりきついことですが、幼い児であればなおさらです。
 セザンヌはモデルに「リンゴは動かない、動くな!」と怒ったそうです。伊之助先生は叱るわけにはいかない。母親のフミコさんがそばにいて、パオロ君に話しかけたりしてくれていました。先生は人物であれ、風景・静物であれ、現場でそのものを見て、感じることを大切にしていましたので、パオロ君を座らせないで、筆を進めることはなかったと思います。完成するまでにどれ位の時間がかかったのでしょうか。画く方も大変だったかもしれませんが、パオロ君もよく辛抱し、そしてフミコさんの協力もあって、一つの作品が仕上ったと言えます。
 ところが、母親のフミコさんはこの年、白血病を患い35歳で急死するのです。パオロ君のまな差しがどこか哀しそうなのは、母との別れを予感していたのかもしれません。伊之助先生は「東大病院に殺された」と嘆き悲しんだそうです。
 パオロ君の記憶に残っているのは病院のベッドに横たわった痩せ細ったお母さん。そして一緒に食べたアイスクリームの甘露な味。幼な児を残し旅立ったフミコさん。母を失くしたパオロ君の胸中も計り知れません。
 元気なお母さんを知らないパオロ君にその姿を蘇らせてくれたのは、硲伊之助作「燈下」でした。その複製を額に入れ、身近に置いていたといいます。スタンドの光の下で読書する母、若くて生き生きとしたその眼が真っ直ぐに自分を見つめ、「パオロ、よく勉強するんだよ」と語りかけてきたそうです。
 6月27日、硲伊之助美術館で、ローマ大学教授になった66才のパオロ君が約10年ぶりに母(「燈下」)と再会しました。美術館では開館20周年記念と、パオロ君が来館することもあって、フミコさんを描いた硲伊之助作「アンゴラのセーター」(油彩)、さらに先生の弟子でもあったフミコさん作の「硲伊之助像」(油彩)など、パオロ君に関連した5作品を展示しています。
 最後になりましたが、パオロ君の父親ミケランジェロ・ピアチェンティーニ氏は2005年、イタリアから硲伊之助美術館を訪れ、硲伊之助作「P夫妻像」(油彩)を寄贈し帰国、その四ヶ月後に89才で亡くなりました。今回、パオロ君が「P夫妻像」を見るのは生れて初めてのことで、新婚時代(1946年作)の両親の姿にしばし見入っていました。

(夢レディオ編集室 Vol.34掲載)