硲伊之助美術館では、本年度(※)の常設展を開催中(4月20日迄)で、正面ケースの中央には「九谷本窯上絵夏樹立大皿」(1973年作径45・0㎝)が展示されている。この作品の下絵は前年、丹後天橋立に三ヶ月間滞在した折に描かれたもので、その木炭による素描画は、格好のモチーフ、天候、精神的なことを含む自身の体調、それらに恵まれて順調に描き進んだようだ。描き終えたこの素描画のために、めったにないことだが、本金の額縁が注文された。それは今回の常設展でも「夏樹立大皿」の間近の壁面に展示されている。下絵と大皿を比較して見ると、木炭のデッサンを忠実に大皿に呉須で再現していることが分る。 写生したものを雁皮紙に写し、さらに大皿に描く。この場合は素焼大皿に呉須で線描きしたものに、白釉をかけて、還元炎約1250度で焼くことになる。硲伊之助作品は呉須で線描きしたものが多く、当初から古渡りの唐呉須を用いていたが、手持ちのものが無くなったので、廃鉱になった銅山の鉱石から新たに呉須を作った。この新しい呉須は、上質のものは多くはとれなかったが、落ち着いた柔らかい鮮やかな紺青になった。見事な色合いになったこの「夏樹立大皿」が本窯から出た時、先生は喜んだ。さらにこの大皿に着色して色絵窯に入れると、これも思った以上の仕上りになった。言葉に出さなくとも、先生の体中から満足感、充実感が伝わってきた。快心の作だった。
先生が亡くなる半年前(1977)に刊行された「硲伊之助作品集」の陶芸の最初のページには、躊躇なく「夏樹立大皿」を載せた。さらに亡くなった年の秋、一水会陶芸展で遺作を10点近く並べたが、その中央に「夏樹立大皿」を置いた。会場に顔を出した先生の弟子が「どうしてあの作品が真ん中にあるのか」と質問してきた。それは「夏樹立大皿」が最もすぐれているからですと。「夏樹立大皿」は文句なしの自信に満ちていた。
しかし、その後思うことは、この作品は古九谷の特長である色彩の強さを出すのではなく、染付の味わいを生かし淡彩風に仕上げており、古九谷を継承するということでは、代表作とは言えないかもしれないということだった。ただしそのことは、古九谷の五彩、その強さという枠をあらかじめ設定して制作するのではなく、どのような作品にするのかは、その時対面したモチーフを見て感じたことによる、先生の作画態度は自身が感じたことにあくまでも素直であるということだった。
「コラム」カテゴリーアーカイブ
九谷吸坂窯便り 第8回
現在(※)、加賀市の石川県九谷焼美術館では「青手古九谷の世界展」が開かれている(平成28年1月31日まで)。これはJR東京駅構内の東京ステーションギャラリーで8月1日〜9月6日に行なわれていたもので、私は「九谷吸坂窯展」で上京中に同展を見たが、もう一度まとめて古九谷を見ておきたいという思いで会場に足を運んだ。それは本誌前稿で触れた「古九谷についての理解」ということが念頭にあったせいでもある。
さて、この展覧会での白眉は「古九谷青手白山波潯文山水図皿」(33・2×6・0㎝)であろう。私はこの作品が何故に諏訪地方にあるのか疑問に思っていたが、同展カタログを読み、その間の事情が少しばかり分かった。それによるとこの作品は徳川家康の六男松平忠輝が所持していたもので、忠輝は大阪夏の陣の時、家康から勘当され、家康死後も兄である二代将軍秀忠から改易を命じられ、伊勢国、飛騨国を経て信濃国諏訪に幽閉され、この地に92歳で没したが、忠輝の菩堤寺となった寺院「貞松院」に生前所有していたものが寄進され、その中に同作品があった。
さらに、忠輝存命の時代は古九谷窯稼動の時期と重なり、また忠輝は加賀藩三代前田利常(古九谷を創始した大聖寺初代藩主前田利治の父)と親交があったとのことだ。
同作品の図柄は中央にのびやかな線で山が描かれており、この山を白山と見ることもできる。天空は波頭の線描きが施されているのがユニークであるが、これが白山だとすればこの皿が加賀の地で作られたという根拠の一つになり、古九谷伊万里論争に問題、あるいは話題を投げかけることになる。
そしてこの作品が素晴しいのは、全体の中で、付けられている緑、黄、紫、それぞれの色が透明だということだ。それらの色が整理され、関係し合い、ある種の論理性をもって調和しているということだろう。
理解力ということで言えば、それは良いものを良いものと感じる力ということになろうか。おそらく瞬時に理屈ではなく、その作品全体の色を感じ、さらに描線を含む筆触がどの程度に対象の生命感を把えているのかを見る力と言えよう。
私は、硲伊之助のそばに居て、師が作品を前にしている時に、作品のどこを見、どう感じているのかを、それとなく注意深く観察
し、その見方、感じ方を自分自身の身に付けようとしてきた。
良いものとは何か。一言でいえば、色が調和しているかどうかである。古九谷を含む色彩絵画について他にどのような価値規準があるのか、あるならば聞いてみたい。
九谷吸坂窯便り 第7回
硲伊之助(一八九五-一九七七)の古九谷への止むに止まれぬ思いが、九谷吸坂窯になった。
何時、どこでどのような古九谷を見たのか、直接先生に聞いたことはなかったが、戦前か戦後の間もない頃に、東京の美術館か骨董屋で古九谷を見たのかもしれない。
当時、先生は、油絵の具について深刻に悩んでいた。それまで愛用していたのは油絵発祥の地、ベルギー製の ブロックス で、それが手に入らなくなった。第二次世界大戦中ドイツ軍によってその製造工場が爆撃、破壊されたとも聞いた。物資統制の時代に軍から支給された絵具で藤の花を描き、一年位経ってみると赤い藤の花になっていた。愕然!せっかくうまく仕上げたのに、台無しになってしまった。
そのような時に古九谷と出会う。古九谷の色は変色しない。重厚で透明だった。それは中国明時代の赤絵に源があるとしても、古九谷の世界は独自のもので、基本的な色の五彩(青・緑・黄・紫・赤)によるハーモニーで構成され、その素描力にも息を飲むほどのものがあった。
その完璧なハーモニーによって、古九谷はこれまで自身が取り組んできた油絵制作と通じるものだと実感したのだと思う。硲伊之助の油絵作品は色の調和を求めるものであり、観念によって制作したものではない。色彩感覚に導かれ描かれたもので、何やかんやと「批評家」が裏読み的解説をする必要のないものだ。
硲伊之助が磁器色絵付を始めたのは一九五一年で、九谷吸坂窯建設に着手したのは一九六一年。それまでの約十年は東京から石川県の小松に毎年通い、一ヶ月程滞在し九谷焼制作を行なっていた、さらに本格的にやるためには自身の窯を作る必要を感じながらも、それを決意し実行に移すまでには、十年程の時間を要した。その頃、先生は東京の三鷹に住んでいて、地面に少し余裕があったのでその敷地内に窯を作ることも考えたが、やはり九谷焼をやるのであれば、その現地でやる必要があった。そうは言っても知らない土地で、七十才に近い年齢になって始めるには、一つの決断があったに違いない。
吸坂焼や吸坂手に縁の地で良質の粘土が採れる吸坂という場所が見つかり、さらに古九谷窯跡に近い我谷ダム建設で水没民家がでたことで、それを移築し、工房兼住居にする具体的な建設案を描くことができた。そして海部公子の助手としての支えと推進力があったことなどによって、九谷吸坂窯建設は始まったのだが、それを押し進めたものは、硲伊之助の古九谷への止むに止まれぬ思いであった。当然、そこには、古九谷についての深い理解があった
(夢レディオ編集室 Vol.39掲載)