九谷吸坂窯便り 第7回

 硲伊之助(一八九五-一九七七)の古九谷への止むに止まれぬ思いが、九谷吸坂窯になった。
 何時、どこでどのような古九谷を見たのか、直接先生に聞いたことはなかったが、戦前か戦後の間もない頃に、東京の美術館か骨董屋で古九谷を見たのかもしれない。
 当時、先生は、油絵の具について深刻に悩んでいた。それまで愛用していたのは油絵発祥の地、ベルギー製の ブロックス で、それが手に入らなくなった。第二次世界大戦中ドイツ軍によってその製造工場が爆撃、破壊されたとも聞いた。物資統制の時代に軍から支給された絵具で藤の花を描き、一年位経ってみると赤い藤の花になっていた。愕然!せっかくうまく仕上げたのに、台無しになってしまった。
 そのような時に古九谷と出会う。古九谷の色は変色しない。重厚で透明だった。それは中国明時代の赤絵に源があるとしても、古九谷の世界は独自のもので、基本的な色の五彩(青・緑・黄・紫・赤)によるハーモニーで構成され、その素描力にも息を飲むほどのものがあった。
 その完璧なハーモニーによって、古九谷はこれまで自身が取り組んできた油絵制作と通じるものだと実感したのだと思う。硲伊之助の油絵作品は色の調和を求めるものであり、観念によって制作したものではない。色彩感覚に導かれ描かれたもので、何やかんやと「批評家」が裏読み的解説をする必要のないものだ。
 硲伊之助が磁器色絵付を始めたのは一九五一年で、九谷吸坂窯建設に着手したのは一九六一年。それまでの約十年は東京から石川県の小松に毎年通い、一ヶ月程滞在し九谷焼制作を行なっていた、さらに本格的にやるためには自身の窯を作る必要を感じながらも、それを決意し実行に移すまでには、十年程の時間を要した。その頃、先生は東京の三鷹に住んでいて、地面に少し余裕があったのでその敷地内に窯を作ることも考えたが、やはり九谷焼をやるのであれば、その現地でやる必要があった。そうは言っても知らない土地で、七十才に近い年齢になって始めるには、一つの決断があったに違いない。
 吸坂焼や吸坂手に縁の地で良質の粘土が採れる吸坂という場所が見つかり、さらに古九谷窯跡に近い我谷ダム建設で水没民家がでたことで、それを移築し、工房兼住居にする具体的な建設案を描くことができた。そして海部公子の助手としての支えと推進力があったことなどによって、九谷吸坂窯建設は始まったのだが、それを押し進めたものは、硲伊之助の古九谷への止むに止まれぬ思いであった。当然、そこには、古九谷についての深い理解があった
(夢レディオ編集室 Vol.39掲載)

九谷吸坂窯便り 第6回

 この春、九谷吸坂窯ではその工房兼住居である萱屋根の修理がなされた。5年前に北側を修理し、今回は南側。太陽の当り具合、樹木の枝の伸び加減、風の吹く方向などによって萱屋根の痛み状態は異なってくる。朝から夕方までお天道さまが出来るだけ平等に当るように家屋が建てられ、周囲に大きな樹木がなく、萱屋根の傾斜が急であることなどが屋根にとって大切になる。と言っても北陸では11月から3月まで天気が良くないので、萱屋根には気の毒である。
 いずれにしても萱屋根は時間の経過とともに腐蝕していく。それも確実にそうなるので、出来るだけ上手に腐らせるようにしなければならない。その点は萱手職人の技術によるのかもしれないが、屋根全体を一律に雨水が流れ落ちるような状態が最良だが、どこか一箇所に雨水が集中して流れ出すと、そこは痛みが早くなり、窪みができたりする。雨水は1ミリでも低い方に流れるので、何年か先に窪みが出来るのは避けられないかもしれない。棟に近いところは風通しもよく雨水の量も多くない。軒に近い方は逆なので早目に腐蝕し泥化する。今回も棟に近い3分の1はそのままにして、下の方3分の2を葺き替えることになった。
 職人さんは前回に引き続いて飛騨の高山から来てもらった。それ以前は若狭の職人さん達で2代にわたって40年程のお付き合いだった。彼等とは、萱屋根修理の1ヶ月間位、三食をつくり、寝る場所、風呂その他を用意し、寝食を共にするという感じだった。いわゆる3Kを絵にかいたような仕事、蔑みの視線を感じたであろうが、自然に最も近い萱屋根、自然とともにある共同作業。素朴で謙虚さが身についていた。彼等も年をとり、後継者がなく、高山の職人さんを紹介してくれた。
 高山の棟梁は2代目で40才。5年前、最初に九谷吸坂窯にやって来た時、「僕は萱が大好きで、萱の中に寝ていてもいいのです。ここの萱屋根は人間の暮しがあるから生きています。こういう萱屋根は今ではほとんどありません。是非仕事をさせて下さい」と言って、私達を感動させた。
 今回は、私達も年をとり、三食どころか昼食の用意もできなかったが、彼等は町内の空き家を借りて、冷蔵庫から鍋その他生活道具一式を持参、自炊した。
 主な材料である萱は、前回に御殿場の富士山の裾野から取り寄せたものが残っており、それで間に合った。しかし萱屋根が大部分だった往時と違い、これからは材料、人手、あるいは屋根を散髪する大きなハサミなどの道具も入手が困難になるだろう。
 天候にも恵まれ無事に作業は終了し、彼等は元気に次の仕事に向かって行った。「文化財」を維持、管理することは楽ではないが、萱手職人から学ぶ
ことは多い。
(夢レディオ編集室 Vol.38掲載)

九谷吸坂窯便り 第5回

 私が九谷吸坂窯に入門した頃、吸坂手や吸坂焼に使う吸坂釉はほぼ完成していた。吸坂町で採れる赤土と松灰、陶石や陶土などを調合する割合が決まっていたということだが、それには何度かの試験焼を要した。試験と言っても1250度位の還元炎で焼かなければいけないので簡単なことではない。磁器、九谷上絵付をする素地と同じ窯で焼くため、磁器の白釉が溶ける温度で吸坂釉も溶けるようにしなければならない。最初は溶け過ぎたり、あるいは溶けなかったりの試行錯誤。なかなか計算通りにはいかず、溶け過ぎるとテカテカの飴釉状態で品がなくなり、逆に溶けないとカチカチで銀化することもあった。
 私が最初に見た吸坂手の硲伊之助作品は、「吸坂手夫婦鶴瓢形皿」だった。その吸坂釉の色合い、線描きした呉須の発色、瓢形皿の手ざわりなど、心に自然にしみ入ってくるものがあった。同時に、そう簡単にできるものではないという緊張感、ある種の重厚さも感じた。とにかくしっとりとした溶け具合、手作りの温かさに何とも言えない魅力があった。先生の作品をはじめとして油絵についてはどう見たらよいのか分らないところだったのだが、「吸坂手夫婦鶴瓢形皿」は理屈抜きで、何の説明も必要なしに良いなあと思った。これは日本人にとって、油絵とやきものがもっている歴史の差からきているのかもしれない。
 吸坂手の昔のものは大半が白抜きしたもので、上絵付したものはきわめて僅少である。1967年の東京美術倶楽部青年会の古九谷端皿展図録に「吸坂手赤絵枯木尾長鳥図皿」が載っているが、赤絵と表記しているので、九谷の緑、黄、青、紫などは使っていないのかもしれない。カラーでないのが残念でよく把めないが、尾長鳥皿は有田産の吸坂手に比べて、図案的に描かれていない。これは私が最も見たいものの一つだが、未だその機会がない。
 硲伊之助の吸坂手の作品の中には、前記の「夫婦鶴瓢形皿」のように白抜きで仕上げたものもあるが、上絵付した作品が相当数ある。これらは九谷焼の絵具を使っているので、広く言えば九谷焼に入れてもよいと思う。硲伊之助が切り拓いたと言える、吸坂釉上絵入の作品は、吸坂釉に九谷上絵具の五彩が見事に調和しており、先生の古九谷と吸坂手への思いが作品になったと言える。それらの中には径39cm前後の作品が三点ある。それぞれ小判草、あやめ、山帰来を描いたものだが、あとにも先にも硲伊之助にしかできない作品であろう。それらの作品は順次、硲伊之助美術館で公開展示している。
(夢レディオ編集室 Vol.37掲載)